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2015-05-29

空堀哲学café「名前」振り返り

先日の空堀哲学caféの振り返りが届きました。

「名前」がテーマということを意外に思われる方もいるかもしれませんね。「これで対話ができたらだいたいなんでも大丈夫よね」と進行役が言ってましたが、どうだったのでしょうか。振り返りは続きからどうぞ。



振り返り

 今回はいつもと趣向を変えて、ちょっとしたワークから始めました。参加者のみなさんに「今日呼んでほしい自分の名前」を考えてもらい、その名前をつけた理由を話してもらいました。憧れている「名前」や昔の「あだ名」、思い入れのある「ニックネーム」などをみなさん選ばれていました。このワークは色んなところでやったことがあるのですが、そのときに気がついたことなどがあって「名前」をテーマに話したいと思ったのでした。では対話の内容を振り返ってみますが、ここから先の「名前」は「姓」に対する「名」の意味で書いていきますので、そのつもりで考えてください。

 さて、どんな話があったか。まず、子供の時と今とでは自分の「名前」に対する捉え方が違うということが話されました。子供の時はどうにも自分の「名前」を好きになれなかったけれども、大人になるにつれ自分の「名前」の受け取られ方が色々とあることがわかるようになり、良さがわかるようになってきた、ということでした。

 子供のときの自分の「名前」との関係、そして、大人になってからの自分の「名前」との関係。対話が進んでから、また別の観点からこの話が出てきました。子供のとき「名前」をよく間違われて嫌だったと言われていた方がいました。一方で、大人になったいま、「名前」を間違われることをそれほど気にしなくなった、という方もいました。

 子供の時に自分の「名前」が気に入らなかったこと、「名前」を間違われると嫌な気分になったこと。それが大人になるにつれて変わっていくこと。こうしたことを考えると、子供にとって「名前」というのは大人よりも重たいものなのかもしれません。子供のときの私たちにとって、「名前」は自分自身と、「私であること」と強く結びついているのかもしれません。それが、大人になるにつれて色々な立場で色々な役割を引き受けるようになり、自分を象徴するものが「名前」以外にもたくさんできてくる。だから、自分の「名前」についても色々な捉え方ができたり、間違われても平気になってくる。子供と大人とでは「名前」のもつ重みが違っていそうです。

 高齢の人と関わる機会の多いお仕事をされている方が、高齢の女性は「名字」ではなく「名前」で呼ばれると喜ぶ人が多いということを教えてくれました。女性は「名前」で呼ばれる機会がどうにも少なくなる傾向があるようです。最近でこそ少し変わってきているかもしれませんが、ほとんどの場合で女性は結婚すると「名字」が変わります。結婚した後は新しい「名字」で呼ばれ、「お母さん」と呼ばれ「奥さん」と呼ばれ。たしかに、なかなか「名前」で呼んでもらえないのかもしれません。子供の頃は「名前」で呼ばれていたのでしょうが。

 「名前」で呼ばれるということでは、それが「親しみ」とつながっていることも話されました。家族以外には「名字」でしか呼ばれたことがないことがコンプレックスだったという方がいました。その方は、あるときその方自身のイメージにあう「ニックネーム」を外国語でつけてもらったそうです(最初のワークでもその名前を選ばれていました)。「名前」で呼んでもらうということは、呼んでくれた人との「距離が近い」ことを感じさせる出来事のようです。初対面の人をいきなり「名前」で呼ぶのは気が引けますね。

 それだけにイギリスに行ったときのことは意外でした、ということを私が話しました。イギリスでは初対面だろうが年上だろうが、「名前」で呼び、「名前」で呼ばれました。それがふつうだったのです。そうだとすると、「名字」で呼ぶというのも当たり前ではなくなってきます。いったい何のゆえに?「名前」で呼ぶことが「親近感」と関係があるとすると、まだそれほど「お近づき」になっていない人は「名前」では呼びにくい。でも、呼びたい。だから、「名字」で呼ぼう。こんなふうに考えられるかもしれません。

 「名前」と「名字」の不思議な関係は他にも話題になりました。「名前」の中には「性別」の違いをはっきりさせるものがあるのに、「名字」はそうでないのはなぜか。「○○子」という「名前」を見ると、私たちはその人が「女性」だと思います。でも「名字」から「性別」はわかりません。考えてみれば不思議なことだと思います。「○○子」が「女性」だと思うのは「○○子」が「女性」の名前だと思っているからですが、いったい「○○子」のどこに「女性的」要素があるのでしょう。「名字」を見たときは、そもそもそこから「性別」を読み取ろうとはしません。でも「名前」を見たときは、「男性」だと思ったり、「女性」だと思ったり、どっちだろうと悩んだりします。

 他にも、漢字の「名前」か平仮名の「名前」かという話がありました。男性でも時と場合によって名前を平仮名で表記することがありますが、本名がそもそも平仮名という男性はなかなかいません(みなさんは会ったことがありますか?)。でも女性ではそんなに珍しくもありません。ちなみに、参加者の方に平仮名の名前の女性がいたのですが、小学校の書道のときに困ったそうです。他のみんなは学年が上がるにつれ漢字で名前を書けるようになり、先生も漢字で書くように促します。そんななか自分ひとりだけいつまでも平仮名で名前を書いていて、まるで漢字が書けないかのように見えてしまっていたそうです。「名前」と文字の関わりでこんなことも起こってしまうのですね。

 「名前」で呼ぶのではなく「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼ぶときのことも話題になりました。こういう呼ばれ方をすると、「おばあちゃん」全体のなかの一人として呼ばれているようで、何か腑に落ちない感じがするそうです。「私はあなたのおばあちゃんじゃない」と言い返したい気分にもなるそうです。これも「親しい」人にそう呼ばれるなら抵抗はないようです。ついついこういう呼び方をしてしまうと話されている方もいました。しかし、「おねえさん」は問題ないそうです。これをネタとして言ったり、受け取ったりすることは関西人に特有なのでしょうかね。

 「名前」をつけるときについて話された方もいました。親の思い入れのある言葉をつかった「名前」をもらったという方がいました。また、どんなとき、どんなところで、どんな人に呼んでもらいたいか、という考え方で「名前」をつけることもあるという話もありました。自分の「名前」は自分にとってはすでにつけられたものですが、その中にはその「名前」がつけられるときのことも含まれているということなのでしょう。

 今回の対話での私の発見は、「名前」が時間を渡っているということでした。私は「名前」を呼び、「名前」が呼ばれるそのときのことが最初に思い浮かんでいたので、「名前」は時間でいうと「現在」のものだと思っていました。

 ところが、皆さんの話を聞くと、「名前」はいつも「過去」や「未来」」までも含んでいます。「名前」がつけられるときには、その子がどんなふうに育ってほしいとか、どんなところで生きてほしいといった「未来」の時間が込められます。高齢の女性が「名前」に思い入れのあることを教えてくださった方は、ほかに「名前」をもとにその人の人生を振り返ることがあるということも話してくれました。その人の「名前」に込められた意味を鍵に、その人の「過去」を振り返っていくのだそうです。

 こうしたことを聞いて、今この瞬間にその人の「名前」を呼ぶことは、同時に「過去」のその人と「未来」のその人を呼ぶことになっているのかもしれないと、思いました。「名前」を呼ぶということは、「過去」「現在」「未来」のすべての時に渡ってその人を呼び止めること。こう考えると、「名前」そのものが、そして「名前」を呼び呼ばれることが何か特別な意味をもつことも頷けるような気がします。

 「名前」というテーマでどのくらい対話ができるかいつも以上に見切り発車だったのですが、10人も集まればいくらでも、というところでした。みなさんも一人では考える気もおきないようなことを、誰かと話してみてください。意外と些細なことでもないかもしれません。
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tag : 哲学カフェ振り返り

プロフィール

のら

Author:のら
猫鳴堂の堂守猫(雑種)。青い。

空堀哲学café
・日時:
 毎月第四日曜日
 16:00~18:00
・場所:
 道勝café
 大阪市中央区谷町6-4-20


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