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2015-07-08

空堀哲学café「アクセサリー」振り返り

先日の哲学カフェの振り返りが届きました。

「完全に進行役の個人的な趣味のテーマでは?」と突っ込んだのですが、「で?」と言われました。では、振り返りは続きからどうぞ。


振り返り

 身近なモノ・コトに驚くことができる、ということは進行役として狙っていることのひとつだったりします。「アクセサリー」でもそういう発見はあるはずだと思っていましたが、予想していたより大きなものに触れることになりました。

 「アクセサリー」はどんなものがあるか考えると、指輪やブレスレットといものがありますが、パソコンの周辺機器も「アクセサリー」と呼ばれます。前者は「装飾品」という感じがしますが、後者は「機能を追加・補助するもの」というところでしょうか。装飾品というとなくてもいいような感じがありますが、機能の追加・補助は必要なときがあるように思います。こんなことを話しつつ、ひとまず指輪やブレスレットがスタート地点になりました。

 では、そういう「アクセサリー」は何のために身につけるのか。ひとつには人に見せるため、またひとつには自分で満足するため。

 ひとに見せるために身につけるとき、「アクセサリー」は「必ずしも必要でないものを身につける余裕を示すもの」になっていると考えました。この「余裕」というのは主に「経済的余裕」だろうという話がありました。有名ブランドの「アクセサリー」を身につけるときのイメージです。ブランド品はロゴなどが入るためにデザインが似通ってしまうイメージがあるのですが、他のひとと違うものを身につけるためにより高価なものを手に入れるという発想があるようです。

 自分のために身につける場合はどうでしょうか。この場合は、「アクセサリー」そのものやそれを身につけることが、そのひと自身にとって何かの意味をもつようです。お守りだったり自分の信条の表現であったりといった具合ですね。いずれにしても、「アクセサリー」が「身につけるひとにとって力を与えてくれるもの」になるということです。

 こう考えると、何が「アクセサリー」なのかもはや際限がなくなってきます。「資格」も「アクセサリー」なのではないかと考えられた方がいました。様々な資格がありますが、中には資格としてもっていなくてもいいのでは、と思えるものもあります。それでも、資格をもっていることでそのひとの自信につながったりするのであれば、それはある種の「アクセサリー」かもしれません。もっといえば「友人」や「恋人」も「アクセサリー」かもしれないという話もありました。「こういう友だちが欲しい」とか「彼女/彼氏はこんな人がいい」と思うとき、それは好みの「アクセサリー」を探す感覚に案外近いかもしれません。自分の満足のためにそういったひとたちと付き合うのであれば、ですが。

 資格や人間関係も「アクセサリー」かもしれないなら、「アクセサリー」を身につけないということは意外と難しいかもしれません。家の中で裸になっても、まだ色々な関係から抜け出ることはできていなくて、そのどれかは「アクセサリー」かもしれません。ヌーディストビーチでは「アクセサリー」を身につけていないのでは、というお話がありました。これなら家の中にいるよりは色々なものを脱ぎ捨てている気がします。もちろん、ヌーディストビーチにもそれなりの決まりごとはあるでしょうから、そのいくつかは「アクセサリー」と思われるかもしれません。

 さて、話は変わって、「アクセサリー」をプレゼントするときのことについても考えました。「アクセサリー」をプレゼントとして選ぶときには、送る相手のことを考えて選びます。「似合うだろうか」「こういうものは自分では選ばないだろうからあえて」とか、送る相手がどんなひとかが頭に浮かびます。その「アクセサリー」に込められた送る側の思いが、送られた側には関係性の象徴として受け止められると考えた方がいました。その「アクセサリー」を見ると、送ったひとのことを思い出し、そのひとと自分の関係も思い出されるということです。また、送られた「アクセサリー」はある種の評価だと考えた方もいました。もらった「アクセサリー」を見て、「これをくれるということは、私はこういうふうに見えているんだな」と思うわけです。

 プレゼントするときのことから、「アクセサリー」にとって「誰が」ということが大事なのでは、という話になりました。「誰が」ということが絡んでくるかどうかで、何かが「アクセサリー」なのかどうかが決まるということです。この「誰が」ということを「笑顔」と言われた方がいました。あるものを身につけているひとが、それに思い入れを感じるのかどうか。それを身につけていて気分がいいか、それが気に入っているか。そんなふうに、「誰が」が絡む、ということを考えられそうです。

 この「誰が」と関係して、ある種の「アクセサリー」はむしろ「誰が」を消すことがあるという話になりました。これも「アクセサリー」なのかどうか微妙なところに入っています。

 ある特定の「アクセサリー」はある特定の立場のひとを象徴する場合があります。儀式で身につけるタイプの「アクセサリー」がそれになります。話題になったのは、お坊さんがもっている数珠でした。「数珠を持っているひと」は「僧侶という立場のひと」だと認識され、それが実際誰なのかは気に留められないことが多いそうです。つまり、お坊さんが来たことは覚えていても、それが誰かは思い出されないということです。「アクセサリー」自体が役割の象徴としての意味をもつと、それを身につけたひとが誰かよりも、そのひとがどんな役割のひとなのかということの方が注目されるようになるわけです。

 こうなると数珠は「アクセサリー」ではないのでは、と思えてきます。ところが、お坊さんたちも自分のことを覚えてもらえないことは気になるようで、数珠に特徴をもたせて「あの数珠を持っているのは○○さんだ」と覚えてもらえるようにしたりするらしいです。やっぱり「アクセサリー」の面もあるように思えてきます。私は、自分なりにアレンジして制服を着こなす高校生たちのことを思い出していました。

 数珠の一方でネクタイも話題にしました。どちらも「身につけなければいけないシチュエーションがあるけれども、『アクセサリー』としてその人なりのチョイスができる」という微妙なところにあるものです。ネクタイを完全に「アクセサリー」として身につけてしまうと、良く思われない場合があるとおもいますがどうでしょうか。

 「アクセサリー」を身につけてもいいか。これについて指導する立場に立つことがある方によると、「アクセサリー」を身につけないように指導することはコントロールのわかりやすいかたちだそうです。たしかに、身につけるものを制御することは、目にも見えてやりやすい方法だと思います。そして一方では、これを身につけなければならない、というものもあります。さらに、その身につけなければならないものに各々の思い入れが込められることもあります。

 「アクセサリー」を身につけたり身につけなかったりを自由に選ぶことができるというのは、実はそんなに当たり前のことでもないかもしれないという話になってきました。「アクセサリー」が誰かをコントロールすることと関係するなら、「アクセサリー」を身につけられるかどうかはその場の「ルール」の「余裕」とつながっているかもしれません。もちろん、「余裕」があることが即座に良いことなのかどうかは考えようです。そして、その「余裕」がどのくらいのことまで受け入れてくれるのかも定まったものではないでしょう。ただ、出かけるときに「アクセサリー」を身につけるかどうか考えられるということには、けっこう大きな背景があると考えてよさそうです。

 「アクセサリー」を身につけるとき、あるいは身につけないとき、「私は自由なんだ」と思うことは、思ったことはありますか。それはあまりに大袈裟な言い方ですが、でもそのくらい大袈裟なことをしているのが日常なのかもしれません。考えてみたらビックリするようなことを難なくこなしているのかもしれません。そんなことをみなさんも探してみてください。


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tag : 哲学カフェ振り返り

プロフィール

のら

Author:のら
猫鳴堂の堂守猫(雑種)。青い。

空堀哲学café
・日時:
 毎月第四日曜日
 16:00~18:00
・場所:
 道勝café
 大阪市中央区谷町6-4-20


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