fc2ブログ

2015-07-29

空堀哲学café「霊」振り返り

先日の空堀哲学caféの振り返りが届きました。

女性陣が浴衣で参加してくださり、見た目も華やか、趣のある対話になりました。
進行役もお借りした浴衣を羽織っていましたが、いつも以上のゆるさになっていた気がします。

振り返りは続きからどうぞ。


振り返り

 今回のテーマは「霊」でしたが、案内文を作るときには「幽霊」や「お化け」も候補にしていました。結果としては、「霊」にしたことで「生きる」ということとつながりながら考えることができたと思います。

 「霊」が「見える」人と「見え」ない人がいるのはなぜか。今回参加してくださった方には、「霊」なんて存在しないと言われる方がいませんでした。なので、この問いからスムーズに始まっていったのですが、考えてみればそれも不思議なことでした。ちなみに、「見る」ということは、必ずしも「目で見る=視覚」だけに限らないこととして話し合いました。

 それはさておき、何かが「見える」のはなぜかということについて、「見え」なければ困るものは「見える」と考えた方がいました。逆に「見え」なくてもいいものは「見え」ない、あるいは「見え」なくなったということだろう、と。たとえば、酸素は空気中にたくさんあって、探さなければいけないということがふつうはないので、「見え」ないという具合です。何かが「見える」ためにはそれをキャッチする「受容器」が必要なのだけれども、とくに「見え」なくてもいいものには、対応する「受容器」がないということですね。「霊」を電波に喩えられた方もいました。テレビは電波をキャッチして映像を映し出せますが、人間にはそれができません。でも、もし電波が「見え」たらそれは困りそうです。チカチカしてかえって何も「見え」ないような気がします。

 「霊感」のことを「第六感」なんて言ったりしますが、「霊」が「見える」人はそれで何か得をしていたりするのでしょうか。さすがにそれはありませんか。ところで、「霊」を「心」や「精神」として考えておられた方がいました。「第六感」が「心」や「精神」の「受容器」だとしたら、この「受容器」がないとむしろちょっと困りませんか。と、こうして振り返りながら思いました。

 「霊」が「見える」ことについて、「見て」いる側が「見え」ているものにカタチを与えていると考えた方がしました。「何かに首を絞められている感覚」をもつと、「首を絞めるものは手」と連想して、結果「手が見える」となるわけです。「首を絞めている手」が「見えて」いるのではなく、「首を絞めている何か」を「手」として「見て」いるというところでしょうか。離れたところにあるぼんやりした影を、私たちは「人が立っている」と「見て」しまう。そして、それが「霊」だと。

 こう考えると、「見える」ことは「知っている」ことと関わってきます。私たちが何かを「見る」とき、その何かは私たちが連想できる何かに「見える」という仕組みになっているかもしれないからです。知らないものを連想することはできないので、私たちはどんなものも知っている範囲でしてか見ることができないということになります。

 「霊」をキャッチする「受容器」と何かを「霊」として「見て」しまうこと。みなさんはどう考えますか。

 ここまでとは違う角度からの問い、なぜ「霊」と「人間」を「見分け」られるのか、という問いかけをされた方がいました。「霊」が「見える」かどうかということは、そもそも「霊」と「人間」が「見分け」られているのでなければ判断できません。すれ違う人たちの中に「霊」がいないとどうして判断できるのでしょうか。

 これに対しては、「霊」がいるかもしれないと思いだすとキリがないという考え方が出ました。「かもしれない」ということは他にも、「宇宙人かもしれない」「男性だと思ったけれども女性かもしれない」など色々な可能性が出てきます。これではただ人とすれ違うことすらままならないので、とりあえず「人間」だと思うことにするわけです。要は、「人間」と「霊」を区別して「人間」を「見て」いるのではなく、「見えて」いるものは全部「人間」だということにしているわけですね。

 そう思わないだけで、実は私たちは「霊」を毎日「見て」いるのかもしれません。ただ、この「かもしれない」が確信になるためには、「霊」にも「霊」らしい格好をしてもらわないといけないかもしれません。ふつうの「人間」の格好をされていては、「かもしれない」と考えてみることをしない私たちには察知できないでしょうから。

 「霊」はどんな存在なのか、最後の方はそんな話になりました。誰かが亡くなった後、その人は「生きている」ときとは別の方法で、別のあり方で存在し続ける。そう考えている方がいました。たとえ火葬をしたとしても、骨は残るということを話された方もいました。死の後にも残るもの。実は色々あるのかもしれません。

 このあたりは私も自分の考えを話しながら流れに加わっていましたが、死後に残るものの一つは「力」のようなものかもしれません。ある人が生きているあいだに動かしていたものは、その人が死んだ後もしばらく動き続ける。その「力」が「霊」なのかもしれない。例えば、ある組織の長である人が亡くなっても、それでその組織が完全にストップしてしまうことはないでしょう。亡くなったその長が果たしていた役割、手をつけていた仕事はいずれ止まってしまうでしょうが、急にぱったりと止まるものではないでしょう。少なくとも少しのあいだはつづくはずです。そうやって、「力」が残り組織をしばらく動かし続ける。

 「霊」は何かを動かす「力」。これは「死者」に限った話ではなく「生者」にも言えるかもしれません。

 強い「うらみ」について話してくださった方がいました。まるで何かに憑りつかれたように見えるほど、強い「うらみ」を抱く人。その「うらみ」が自分に向けられているときは、たとえその人が側にいないときであってもその「うらみ」を感じることがある。そんな
お話でした。たしかに、こういった強い気持ちは人を動かすものでしょう。そして、その「うらみ」はいつしか他の人にまで入り込み、他の人を動かすようにもなる。「霊」が憑りつくということ、それは人を動かす「力」の侵入のことなのかもしれません。

 話の流れで「生霊」という言葉も出てきましたが、「うらみ」のように生きているときにもあるようなある種の「力」が「霊」だとすると、私たちは生きているあいだにも「霊」を生み出し続け、何かを動かしているのかもしれません。もちろん、それは「負」のものだけではなく「正」のものもあるでしょう。「楽しみ」も大いに人を動かし、また人のあいだで連鎖することがあると思います。いわゆる「パワースポット」と呼ばれるところに人が集まるのも、こういう「正」の「力」、「正」の「霊」を蓄えるためなのかもしれません。

 「霊」を「力」と考えると、「生」と「死」の変わり目のことも見えてくるような気がしました。私たちが生きているあいだにも生みだしつづけている「霊」「力」は、私たちが死んだ後にもまだ何かを動かし続ける。「霊」「力」というところからすると、「死」は「生」がある時点を境にピタッと止まることではないのかもしれない。「死」の後も「余力」が何かを動かし続ける。「霊」はそうして「生」と「死」を渡っている。そして、ときにはその「霊」をカタチあるものとして「見る」ことができる人がいる。「死」は何もかもを遮断し、絶対的な静止をもたらすように思えますが、案外「生」は「オーバーラン」するものなのかもしれません。

 存在するのかどうか怪しいものには、「そもそも存在するのか」と問うこともできるでしょう。「存在しないものについて考えても仕方ない」と思うならそうかもしれません。でも、存在するのかどうか怪しいということは、「存在する」とも「存在しない」ともはっきり言えないわけです。だったら、もう「それは存在するものだ」と思い込んで考えてみてもいいでしょう。「考えても仕方ない」と思うことの中にこそ、膨大な数の問いが潜んでいるのだと思います。そういう意味では、「霊」がいると思ったほうが世界は豊になるような気がしませんか。
スポンサーサイト



tag : 哲学カフェ振り返り

プロフィール

のら

Author:のら
猫鳴堂の堂守猫(雑種)。青い。

空堀哲学café
・日時:
 毎月第四日曜日
 16:00~18:00
・場所:
 道勝café
 大阪市中央区谷町6-4-20


最新記事
カテゴリ
記事一覧

全ての記事を表示する

検索フォーム
リンク
ご予約・お問い合わせ

お名前:
あなたのメールアドレス:
件名:
本文:

これまでの訪問者数
RSSリンクの表示
QRコード
QR