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2015-08-06

「絵本で死について考える」第弐回

今日は二冊目の絵本です。

絵本は『だいじょうぶだよ、ゾウさん』。この回から、あらかじめ問いを設定することはせずに、参加者の皆さんが考えたことから対話が始まる形式になったそうです。人数が多いですから、多方向から十人十色の考え方が飛び交うのでしょうね。

当日の様子は続きからどうぞ。


『だいじょうぶだよ、ゾウさん』あらすじ

 ネズミはいろいろできる子で、ゾウを手助けします。ゾウはネズミをまもり、いろいろなところにつれていってあげました。ある日、ゾウはネズミをゾウの国のちかくにつれていきました。そこは年をとったり、病気がおもくなったゾウがいかなければならないところ。ゾウの両親や友だちもそこにいきました。ゾウももうすぐそこにいくといいますが、ネズミはそんなことは考えたくありません。
 見てみると、ゾウの国へわたるつりばしがこわれています。ネズミはゾウがかえってくるならなおすといいますが、それはできないとゾウはこたえました。
 きせつがめぐり、ネズミはもうおさなくありません。ゾウは弱り、いのちがあぶなくなっていました。ネズミは、ゾウがいなくなるのはかなしいけれど、ゾウの国にいけばゾウはしあわせになるとおもって、つりばしをなおしました。「きみが、きっと手だすけしてくれるとおもってたよ」。そういって、ゾウはつりばしをわたっていました。ネズミはやさしいえみをうかべ、ゾウをみおくりました。

案内文

 誰かと誰かがもう二度と会うことのないお別れをする時。その時、必要なことは何だと思いますか。その時、できることは何だと思いますか。絵本『だいじょうぶだよ、ゾウさん』(作:ローレンス・ブルギニョン、絵:ヴァレリー・ダール)に登場するゾウとネズミが過ごした時から一緒に考えましょう。

振り返り

 絵本で死について考えるシリーズ(と言い切ってみる)『100万回生きたねこ』に続いて、今回は『だいじょうぶだよ、ゾウさん』。ざっくりいうと、おさないネズミが成長を経ながら年老いたゾウを見送るというストーリーです。前回は「死」そのものに流れていくような話でしたが、今回は「看取る/看取られる」について考えたくなる話です。

 参加者は20数人、パッと見て若い人が多いかなという印象。今回は最初に問いを設定せず、おのおの気になるところについて話してもらいました。

 今回の絵本には「ゾウの国」と呼ばれるところが出てきます。ゾウはそこに亡くなった両親や兄弟、友だちがいるといい、いずれ自分もそこにいくとネズミに告げます。この「ゾウの国」とそこに行くことをどうとるかで色々考え方が分かれます。死に際を見せないように一人になりたい、世話をされることで自由がきかなることを嫌がったんじゃないか、死んで他のところ行く、墓に入ることだ。

 ゾウの国へと渡る吊り橋は壊れてしまっていて、最終的にはネズミがそれを修復してゾウを見送ることになります。このシーンについても考え方は割れました。理想的な別れ、死の決定を当人ではなく他者が握っている。様々な人との関係の中で死んでいく、でも自分の死は自分で選びたい、そういう思いと絡み合っているように私には聞こえていました。

 もうひとつ分かれるところは、「ネズミとゾウ」の関係。こちらは後半でどんな風に考えるか問いにして聞いてみました。親子、親戚、仲良し、介護する側とされる側。脳と身体なんて発想もありました。ネズミとゾウの体格差は経験や知識の豊かさを表しているという考え方も出てきました。

 こうして後から振り返ってみると、比喩とか想像の強弱みたいなものが対話の中身の色合いと結び合わさっているように思えます。「ネズミとゾウ」の関係についていうと、「脳と身体」はかなり強く比喩として考えているし、「親子」という発想も「ネズミとゾウ」に血縁はないはずだから喩えとしてとっているはず。逆に「仲良し」は喩えとしてというより、むしろ見たそのままで考えている。描かれているものをそのまま捉えたり、何かの喩えとして考えたり。その間にはグラデーションがあって、微妙なニュアンスの違いを生み出すだけの余裕がある。

 絵本は、ページとページ、文と文、言葉と言葉のあいだに丁度いい空白があって、だから見たまま読むことも比喩として読むこともできるのかもしれません。書かれていることを必死になって読まなくてもいいし、とにかく想像して話をつなげなければならないこともない。好きに読めばいい。好きに読めるから読む人の癖が出やすくて、個性的な色んな想像が出てくる。絵本が人に語らせてくれるのはそんな風に出てきた言葉、今のところ私はそう思っています。

 想像とか比喩といえば、こいつらは「死」と仲が良いか、と思うのですがどうでしょうか。逝って蘇ってきた経験を語れるなら別として、経験で知ったこととしては「死」を語りつくせいないでしょう。もし自分以外の人の最期を通して「死」と知り合っても、それで「死」を全部知ったことにはならないと私は思うのです。「自分の死」にはまだ出会っていないのだから。だったら、会ったことのない「ひと」として想像するしかない。「死」をどう思うのか比喩とか想像で言葉にする。あるいは、喩え話ができるから、想像することができるから、死について考えられる。

 こう考えてみると、絵本は「死」と会うにはピッタリの場所かもしれない。図らずも良いデート場所を選んでた、とか思っています。今回参加してくれた皆さんのお話を聞いて得た私の中での収穫です。
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tag : 中之島哲学コレージュ案内

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 16:00~18:00
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 大阪市中央区谷町6-4-20


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