fc2ブログ

2015-08-29

空堀哲学café「おしゃべり」振り返り

訪問者数が1000を超えましたね。開設からおよそ6ヶ月となりますが、みなさん楽しんでいただけているでしょうか。

さて、空堀哲学café「おしゃべり」の振り返りが届きました。今回はじっくり吟味していく展開になったようです。進行役いわく、裏テーマは「対話」だったとか。

では続きからどうぞ。


振り返り

 今回の話の進み方は、それぞれがあちこち歩き回ってみるというより、みんなで一か所に留まって周囲の様子をよく観察するような感じでした。一つのことにこだわって話す感じですね。この進み方では場の雰囲気もゆったりしたものになるような気がします。

 まず、「おしゃべり」は二人以上で成り立つというところから始まりました。複数の人で集まって話すことが「おしゃべり」の基本的なかたちということです。そのとき、一人の人が圧倒的にたくさん話すことがあります。そこから、その人は「おしゃべり」という出来事を代表する人になり、「おしゃべりな人」と呼ばれることになります。ただし、「おしゃべりな人」が「おしゃべりな人」であるためには、その人の話を聞いている人がいなくてはなりません。そうでないと、ただの「独り言」になってしまうからです。「おしゃべり」にとって「聞く」という要素は欠かせないわけですね。

 「おしゃべり」という言葉自体については、あまり使わないという人もいました。むしろ「飲みに行く」という言い方をしていて、実際にやっていることは「おしゃべり」とおそらく一緒とのことでした。

 そもそも「おしゃべり」はわざわざそれを目的にするようなものなのか、という疑問をもたれた方がいました。この疑問に対しては、「おしゃべり」は自然発生的だと言う人もあれば、いやあえてセッティングして「おしゃべり」するという人もいました。意図がある「おしゃべり」もあるということです。

 自然発生的な「おしゃべり」でもう一つ言われたことが、「中身」についての疑問でした。「おしゃべり」に「中身」はあるのか、という疑問です。「おしゃべり」では「どうでもいいこと」を話していないか、ということですね。これに対して、意図的な「おしゃべり」では「中身」があると思われるわけです。「おしゃべり」とその「中身」の関わり、そもそも「中身」とは何のことか。

 これについて、「おしゃべり」に二種類があるのではなく、「おしゃべり」に関わっている人の関わり方に違いがあると考えられたた方がいました。「おしゃべり」は「おしゃべり」をしている当人たちにとっては意味がある、つまり「中身」がある。ところが、その「おしゃべり」の背景や文脈を共有できない人、「おしゃべり」を傍から見ている人にはそれが「どうでもよく」みえる。人と人が話しているという状況と、それを外から見ている人がいるという構図があるという発想です。楽しげに話している人たちと、それを何と思うこともなく見ている人がいる、というのが「おしゃべり」の全体像ということかもしれません。「コミュニケーション」というと、面と向かっている同士に目がいきがちなのですが、傍観している第三者まで見えてくるところが「おしゃべり」の特徴かもしれませんね。

 さて、「おしゃべり」をあえてセッティングするときにはどんなことがあるのか。時間や場所を決めて「おしゃべり」をする場合、それは「実際に会う」ということなのですが、それが重要という話がありました。そうしなければ「おしゃべり」をした実感がない。「おしゃべり」にとっては「何を話したか」という意味での「中身」だけがすべてではなく、「おしゃべり」ということをしたその事実に意味があるということです。

 誰かと「実際に会う」と、どんなことが相手に伝わり、またどんなことを相手から受け取るのか。「実際に会う」のではない場合から考えました。例えば、LINEのスタンプ、メールの顔文字。言葉だけでなくスタンプや顔文字が用意されている。それは、「実際に会って」話すときにやりとりされる情報を補い、「実際に会う」ということを再現するためのものなのでは。お互いの姿が見えないLINEやメールでは、例えば「見た目」に関わる情報も記述する必要がある。それがスタンプや顔文字として表現されるということです。「見た目」だけでなく、「雰囲気」に関わることを話された方がいました。電話で話すときに、どちらが話し出すのかのタイミングがとりづらいと感じる。会って話す場合には意識せずにできることが、電話では難しい。

 これは裏を返せば、私たちは誰かと会ったとき、意識していなくても大量の情報を受け取り、また伝えているということでもありそうです。

 私として今回けっこうヒットしたのは、「他愛のないおしゃべり」という言い方でした。この言葉に焦点が当たってから、深いところに突っ込んでいった感覚があります。

 「他愛もない」というのは「中身」に関わることで、それはやはり「どうでもいい」に近いながら、少し方向性が違っています。当人の間では「おしゃべり」には意味があるという考え方がさっき出てきていましたが、私は「当人もどうでもいいと思うおしゃべり」がある気がしていました。それでひっかかったのでした。

 「他愛もないおしゃべり」とは「別に意味もなくしゃべり、意味もなく聞く」ような状態です。同じ部屋に誰かといて、それぞれに自分のことをしている。片方が何かを言うと、もう片方が何かを答える。そして、またそれぞれがしていることに戻る。そのやりとりは何だったのかといえば、とくに何かだったわけではない。「さっき何を話してた?」と聞かれれば、「他愛もないこと」と答える。そんな「おしゃべり」です。

 何かを話したかったわけでもなく、ただ「言葉を口にする」ということが勝手に起きる。そして、一応それなりに「言葉」として伝達されるので「言葉を理解する」ということが聞く人のなかで勝手に起きる。そして、相槌なりなんなりを返す。「何かを話す」ことではなくただ「話す」ことが、「何かを聞く」のではなくただ「聞く」ことが起きる。それが「他愛もないおしゃべり」ということの仕組みということです。

 話したり聞いたりという能力を現に発揮しているとき以外にも、人間のコミュニケーション能力はアイドリング状態になっていて、たまに「空ぶかし」をする。それが「おしゃべり」と呼ばれているものかもしれません。スタンプや顔文字のことを考えると、それは「言葉」を介したものだけではないでしょう。

 何も思っていなくても「しゃべって」しまう。ふと聞こえた誰かの「おしゃべり」を「どうでもいい」と思い、あるいは気になって聞いてしまう。それは人間だからそうだということなのかもしれません。人間には「おしゃべり」が必要と言われていた方がいました。「話す」「聞く」ということがまったくできなくることは、人間にとって呼吸ができなくなることくらい苦しいことかもしれませんね。
スポンサーサイト



tag : 哲学カフェ振り返り

プロフィール

のら

Author:のら
猫鳴堂の堂守猫(雑種)。青い。

空堀哲学café
・日時:
 毎月第四日曜日
 16:00~18:00
・場所:
 道勝café
 大阪市中央区谷町6-4-20


最新記事
カテゴリ
記事一覧

全ての記事を表示する

検索フォーム
リンク
ご予約・お問い合わせ

お名前:
あなたのメールアドレス:
件名:
本文:

これまでの訪問者数
RSSリンクの表示
QRコード
QR