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2015-11-27

空堀哲学café「ゆずる/ゆずられる」振り返り

11月の空堀哲学caféの振り返りが届きました。

みなさん実際に話す順番を「ゆずりあい」ながら、「ゆずる/ゆずられる」について考えられていました。

では続きからどうぞ。


振り返り

 「ゆずる」には「良いことをしている」というイメージがあるけれども、「ゆずられる」がそういう意味で言及されることはあまりない、というところからスタートしました。モノがやりとりされる場合の「ゆずる/ゆずられる」は、「あげる/もらう」と同じようなところもありつつどこか違う。

 「ゆずる/ゆずられる」にとっては、何が「ゆずられる」かということだけでなく、「ゆずる」側と「ゆずられる」側の気持ちが問題になるという見方がありました。「ゆずって」もらえるモノが何なのかよりも、「ゆずって」くれる人が誰で、どんな思いでゆずってくれるかが大事ということです。「あげる」ではなく「ゆずる」と言われると、何か特別な思いが込められている感じがすると話された方もいました。その特別さは、「自分が選ばれた」という感覚が「ゆずられる」側にあることに由来するようでした。誰でもよかったのではなく、私にこそ「ゆずり」たいと思ってくれた、という感覚でしょうか。たしかに「あげる」はもう少し気楽な感じがあるように思います。

 ただし、何を「ゆずる」かがどうでもいいということもないようです。「ゆずって」もらったものに価値があると思えなければ、「ゆずられた」側にとってはむしろ「押しつけられた」という感覚になると話された方がいました。

 「ゆずられる」側のことでいうと、「ゆずる/ゆずられる」は単なる一方的な関係ではないようです。スポーツ選手や重役に就いていた人などが、引退するときに「そろそろ若い人たちにゆずって・・・」と言うことがあります。この場合の「若い人」は、特定の誰かのことを言っているわけでもないことがあります。だとすると、この場合の「ゆずられた」モノは、いったん誰のものでもないモノとして宙に浮いた状態になります。そして、やがて誰かがそれを取りに来る。そして、その人が「ゆずられた」人になる。こう考えると、「ゆずられる」側は「ゆずられた」モノをみずから取りに行く必要があるとも思えるわけです。「ゆずる」が能動的で「ゆずられる」は受動的という単純な関係ではなく、「ゆずられる」側も能動的でなくてはならない。モノをやりとりする際に、全員が能動的に関わる必要があるというところが「ゆずる/ゆずられる」の特徴かもしれません。

 「立場」については、「ゆずる/ゆずられる」ではなくて「交代」や「異動」と言う方が「組織」の中では多い、と指摘された方がいました。組織にとっては安定性が重要。ある立場にいる人が誰か他の人と代わる時には、誰がその立場に就いても今までとある程度同じように回らなければ安定性が損なわれる。だから、組織の中での「立場」のやりとりは「機械的に」できた方がいい。

 たしかに、この場合は、気持ちがからむ「ゆずる/ゆずられる」ではなく、「交代」や「異動」という言葉のほうが事態を的確に表しているような気がします。逆にいうと、「立場をゆずる」と言う場合、「ゆずる」人は「ゆずられる」人が今までの自分と同じようにすることを必ずしも期待していないのかもしれませんね。積極的な言い方をすると、「変化を期待している」という気持ちを込めて「ゆずる」と言っているのかもしれません。

 「ゆずる/ゆずられる」と言う場合もあるけれども、そうでない場合もある。このことについては、「ゆずる」がだんだん「ゆずる」でなくなっていくことについて考えた方がいました。「ゆずる」が「制度化」「ルール化」されると「ゆずる」でなくなる、というものです。

 私が訪ねたイギリスのある町では、「車が歩行者に道をゆずる」ということが徹底されていました。この場合の「ゆずる」には「そうしてあげたい」というような気持ちが込められている面もあるかもしれませんが、もっとクールに「ルールだから」とそうしている人もいるでしょう。こういった、明確にルールが存在する「ゆずる/ゆずられる」は、誰が「ゆずる」べきで、誰が「ゆずられる」べきかあらかじめ決まっています。

 言葉のうえでは確かに「ゆずる」と言うのですが、はたしてこれは「ゆずる」なのだろうか、という疑問がみなさんの中に浮かびました。

 ルールがある「ゆずる/ゆずられる」のしっくりこない感じは何なのか。「電車の席」での「ゆずる/ゆずられる」を考える中で、「迷い」が鍵になるという話になりました。席を「ゆずる」人は、「この人にはゆずるべきだろうか」「ゆずると失礼ではないか」「ゆずって断られたらどうしようか」などいろいろ考えます。「ゆずられる」側も、「この人は実は病気を抱えているのにゆずってくれているかもしれない」「次の駅で降りるからゆずってもらわなくてもいい」「座らなくても大丈夫」など席を「ゆずられた」ときに様々なことを思います。結果、「ゆずる」側と「ゆずられる」側はある種の「駆け引き」をして、両者の気持ちの落としどころを探ることになります。「ゆずる」側の気持ちと「ゆずられる」側の気持ちが、その場の即興ですり合わせられ、あるいは衝突します。

 制度やルールがきちんと整っているところでは、こういった「迷い」はなく即興のすり合わせも必要ありません。そして、ルールとしての「ゆずる/ゆずられる」はやがて決まりきった振舞い方になり、「ゆずる」側と「ゆずられる」側はあらかじめ固定された役割になります。ここまでくると、「ゆずる/ゆずられる」は、立場を代わる場合の「交代」と同じようなものになります。つまり、制度化しルール化することで「迷い」はなくなりますが、それによって「ゆずる/ゆずられる」は何か別のものになるということです。これをまた逆に考えると、いまだに「迷い」を伴う「ゆずる/ゆずられる」が展開されているところには、ルールになりきらない何かがあるということでもあるかもしれません。

 この曖昧さに関係するところで、主張について「ゆずる/ゆずられる」を考えたことをきっかけに、「ゆずる/ゆずられる」の「パワーバランス」が問いになりました。

 他の人たちが「ゆずった」ために、ある人の主張がとおることがあります。このとき、「ゆずった」人たちよりも「ゆずられた」人の方が何らかの意味で「力が強い」ということがありえます。つまり、「ゆずる」側が「弱く」、「ゆずられる側」が「強い」という力関係です。ところが、これまた電車の席の場合は、むしろ逆になります。優先座席の案内や車内アナウンスは、何らかの不自由がある人に席を「ゆずる」よう促します。ある観点で「弱者」と呼ばれることのある人たちが、席を「ゆずられる」対象と考えらえているわけです。この場合、「ゆずる」側が「強い」と言い切れるかは別として、少なくとも「ゆずられる」側が「弱い」と見なされているということになります。

 こんなふうに、「パワーバランス」で考えても、誰が「ゆずり」誰が「ゆずられる」のかは一概にはいえないようです。

 すべての「ゆずる/ゆずられる」がルール化されれば、電車の席の「ゆずりあい」のようなもどかしい出来事は起こらなくなる。でも、それはそれでどうなんだろう、何か違う、そういうことではない気がする。そんなところで今回は終わりました。

 則るべきルールがない「ゆずる/ゆずられる」。そのとき、その場にいる人たちが、自分たちで考えて、「私」が「あなた」に「ゆずる」。こうしてみると、「ゆずる/ゆずられる」は誰が何をする人なのかを確認しているとも思えます。だとすれば、対話の場では話す順番を決めず、「ゆずる/ゆずられる」が起こるようにしておいた方がいいのかもしれない。かちあっては「ゆずりあう」タイミングがある方が、誰が話す人で聞く人なのか確認できていいのかもしれない。ぎこちなくて、面倒で、もどかしい方がいいくらいかもしれない。スムーズで円滑なやりとりが、実は誰が話して誰が聞くのかに気を配っていないのかもしれないとすれば。
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tag : 哲学カフェ振り返り

プロフィール

のら

Author:のら
猫鳴堂の堂守猫(雑種)。青い。

空堀哲学café
・日時:
 毎月第四日曜日
 16:00~18:00
・場所:
 道勝café
 大阪市中央区谷町6-4-20


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