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2016-01-30

空堀哲学café「=」振り返り

空堀哲学café「=」の振り返りです。今回の振り返りは「=」ないし「同じ」について考えられる「問い」がいくつか並んでいるので、みなさんも自分なりに考えるきっかけにしやすくなっていると思います。

では続きからどうぞ。


振り返り

 案内文では「同じ」について考えていながらテーマを「=」にしたのは、「同じ」がどのくらいの範囲に及ぶテーマなのかまずは冷静に考えてみたかったからです。テーマは「違う」とか「同じ/違う」とかにもできたのですが、あえて無機質な感じのある「=」にしました。いつもは気になった入口から入ってその中を突き進んでいくことが多いですが、今回はどんな入口があるかを丁寧に見て回ったという印象でした。

 まずは「同じ」にどんなイメージがあるかを「共感」と比べながら考えました。「共感」は「すでにあった何かに後から合流すること」というイメージがあり、しかも「後から合流するものに何らかの変化が伴う」という特徴があります。それに対して「同じ」は、「別個に存在していたものが何らかの基準をもとに結びつけられる」というイメージが話されました。

 「同じ」には、「グループ分け」による「同じ」と「分量・価値」による「同じ」があるようです。「グループ分け」の場合は、形状の異なる二つの容器を見て「これはどちらもコップだ」と判断するときの「同じ」です。「分量・価値」は、二つのコップに入っている水の分量を比べて判断する場合の「同じ」です。「分量・価値」の「同じ」は「等しい」に言い換えられます。「=」という記号だけ見ると、「同じ」というより「等しい」の方が近い感じがありますね。

 基準をつくることで「同じ」が見つかるということなら、最初にあるのは「何もかもが互いに違う世界」と想定することができます。すべてがそれぞれに違っている中にあると、「同じである」ところは際立って見えると話した人がいました。違っていて当然なはずなのに「同じ」といえるところがあれば、確かにそれは目立つでしょう。

 逆に「なにもかもが互いに同じ世界」が最初なのではと考えた人もいました。例えば、小さな子供が四本足の動物を全部「わんわん」と呼ぶことがあるように、区別されるまでは何もかも「同じ」なのではないかということです。脳に障害を負った人の体験として、身の回りのものが境界を失ってつながって見えるというケースがあることを話してくれた人がいました。

 すべては違っていて、そこに「同じ」が見つかるのか。はたまた、すべては「同じ」から始まり、後から違っていくのか。とりあえずこの二つを両立させようとすると、私には「切れ目が入った一塊の世界」というイメージが浮かびました。その切れ目を実際に切り離すかはそのとき次第で、人間の自由がきく。ただし切れ目は人間が好き勝手に入れられるのではなく、世界の方である程度決まっている。そんなことを私は考えました。

 「同じ」について考えていると、「言葉」が密接に関わってくることがわかってきました。「わんわん」と言っていた子供は、「犬」と「猫」に「わんわん」を分けるようになります。一緒くたになっていた四足歩行の「わんわん」が区別されるようになったわけです。「言葉」を使ってなにかを名指すことは、その名指されたものを他のものから区別することでもあります。そして、一つの「言葉」で名指されるものはすべて「同じ」ということになります。

 新しく名前をつくって「同じ」ものの中に違いをつけていくことは、ある種の必要性に駆られてのことだと考えた人がいました。例えば、赤、朱、紅、緋、茜と同系統の色の名前が多かったりするのは、染めの職人などがそれだけ色を区別する必要があったとかいう背景があるかもしれません。

 こうして「言葉」によって「同じ」は切り分けられていくのですが、すべての違いが言い尽くされることはないのかもしれません。二つの色の間にはいつも、もう一つの名づけられていない色がある。膨大な数の形容詞をつけて何かを名指しても、すべての違いを汲み尽くすことはできない。むしろ、名指すことで、隣にある「それとは違うもの」が見つかる。世界に入った切れ目にはどこかに限界があるだろうと私は思っていたのですが、仮にそれがあるのだとしても人間がたどり着けるところにはないかもしれません。

 ここまではずっと「言葉」がある中での「同じ」でしたが、「言葉」がないところでも「同じ」はあるのかという問いが浮かび上がってきました。

 話題になったのは赤ちゃんの世界に「同じ」があるかどうかでした。実際にいま子供を育てているところの人や、その経験のある人の感覚としては「同じ」とか「違う」の区別を赤ちゃんもしているように見えるようです。「言葉」に先導される「同じ」にすっかり馴染んでしまった私たちからすると、赤ちゃんがつかんでいる「同じ」を捉えることは難しいですね。そもそも「言葉」を用いて赤ちゃんの知っている「同じ」を表現すること自体が自己矛盾に陥っているのですが。

 ここにきて、最初にあるのは「何もかもが互いに違う世界」か「何もかもが互いに同じ世界」かということがまた話題になりました。あらためて話し合ってみて出てきた考えは、最初にあるのは「同じも違うもない混然とした世界」ということでした。何かと何かを「同じ」と言うと、必ずその何かは他のものと違うと暗に言ったことになります。だから、「同じ」だけがあって、「違う」がない世界は考えられない。「同じ」と「違う」はそれぞれが別個に存在するのではなく、ある一つの事柄の二つの顔の名前。「同じ」と言おうと「違う」と言おうと、根本的には同じことを指していることになります。

 私たちの誰もが赤ちゃんから、「言葉」のないところから始まります。そこでは世界に「同じ」と「違う」ができる瞬間があるはずです。世界に最初の「切れ目」が入るとき、それはいつなのか。そして、何がその「切れ目」を入れたのか。

 ここまでの振り返りにうまくのせられなかったのですが、「同じ」には「安心感」が伴うという話をした人がいました。今回は「何をもって『同じ』とするか」という方向で考えていたと思いますが、「『同じ』であることをどう感じるか」という考え方もありますね。「みんなと『同じ』がいい」と「みんなと『同じ』は嫌だ」は都合よく使い分けられていると思いますし、その背景にどんな心の動きがあるのか気になります。

 また、「同じ」だと思っていたものが突如として「同じ」でなくなる、ということについて話した人もいました。みんな自分と「同じ」だろうと思っていたら、誰かが自分の想像だにしない動きを見せて驚くというパターンですね。考えてみれば、確認もろくにしないで自分と他の人が「同じ」と思っていることはかなりの数あります。しかも、ほとんどの場合でそのふわふわした想定が通用する。それがなぜなのかも考えられます。

 今まさに小さい子供を育てているとか、接する機会が多いという人が参加してくれていると「言葉」の世界が崩れやすくなって話の幅が広がります。「最初にあるのは『同じ』か『違う』か」という考え方がその問いごとくつがえされたのは、赤ちゃんの話しが入ってからでした。小さなお子さんのいる方ほど時間がとりにくいのがもどかしいところですが、空堀哲学caféの第一回目に実は赤ちゃん連れのお母さんが参加してくれていました。会場はお座敷なので足腰が悪い方には厳しい場合があるのですが、子供には比較的やさしいのではないかと思っています。興味をもってくださっている方は、ぜひ実際に参加してみてください。身近にそんな方がおられましたら、お声かけもお願いします。
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tag : 哲学カフェ振り返り

プロフィール

のら

Author:のら
猫鳴堂の堂守猫(雑種)。青い。

空堀哲学café
・日時:
 毎月第四日曜日
 16:00~18:00
・場所:
 道勝café
 大阪市中央区谷町6-4-20


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