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2016-03-02

空堀哲学café「手」振り返り

「手」の振り返りがきました。

「実感から考えたことは常識からするとぶっ飛んでるのに、むしろその方がリアル」ということが言えそうな回だったそうです。

つづきからどうぞ。


振り返り

 「手」について考えた今回ですが、最終的には人間の体の構造にまで話が及びました。「最終的にこの考え方になった」と言える閉じ方ではあったのですが、その考え方はいつか教わったことのある知識を疑うものでした。

 何をしていると「手」と言われるかというとことからスタートしました。話題にあがったのは「つかむ」や「こすりあわせる」でした。四足歩行の動物の前足を「手」ということがありますが、これは人間が目的をもって「手」を使うときの動作を投影したものだという話になりました。犬、猫、アライグマ、リスなどの前足の動きには人間らしく見えるものがあり、それをもって「手」と呼ぶわけです。他にも、ハエが前肢をこすり合わせる仕草を表現するときに、「足をこすりあわせている」よりは「手をこすりあわせている」の方が自然だという例もあがりました。

 「手」に見られる「人間らしさ」は、その動きに人間特有の目的や性質が表れていると考えられるところからくるようです。手をこすりあわせるにしても、それを見て私たちは「祈り」とか「寒い」といった理解をします。また、「手」には生き方や人生があらわれるとよく言われると話された方がいました。それと関係して手相も話題にあがりました。「手」はいつも何かを表現しようとしている、何かに触れようとしている。そういったものとして、私たちは「手」を見ている。そうして私たちは「手」から「意図」や「意味」をくみ取っています。

 「意図」や「意味」というと、とりあず「頭で考えたこと」と思われるのがふつうでしょう。そして、「手」はその「思考」に沿い、「頭」に従って動いていると考えられます。たしかにこの説明の仕方で納得できる場面はあるのですが、「手」に表れる「意図」には別の理解の仕方があるという話になりました。「気持ち」としてはまったく正反対でありながら、それでいて「勝手に動く」という点では同じという、「手」の不思議な二つの動き方の話です。

 一つは、気持ちが昂ったり、極度に緊張したときなど、強い「気持ち」が起きるとき勝手に「手」が動くというものです。勝利の喜びでも強い怒りでも、「手」は握りしめられているものです。複数の人がいればハイタッチをすることもあります。このときの「手」は、「私は喜んでいるから手を握りしめるぞ」と思うよりも先に勝手に動いているはずです。もっとわかりやすい例で、「手」の震えについて話してくれた人がいました。平静さをたもっているつもりが、「手」が震えているのを見て、自分が緊張していることを知るという場合です。こういうときの震えはいくら止めようと「思って」も止まらないですよね。それに緊張しているときの「手」の震え方を意図的に再現することはかなり難しいはずです。他に、どう「手」を動かすかはわかっているのに、恐怖のあまり「手」が動かなくなるという経験を話してくれた人もいました。強い「気持ち」の中では、「手」が「頭」と離れて動きだすことがあるわけです。

 ちなみに、自然と「手」が動く例として、神仏の前で「手を合わせる」という話もありました。これについては、「手を合わせる」というのは「手」が自らの動きを封じ込めるということで、人間を超えた存在への畏怖を、「頭」で理解するより先に「手」が表現しているという解釈が出ました。

 もう一つは、訓練や練習の結果として勝手に「手」が動く場合の話です。こちらの場合、「気持ち」の面では「無心」という文脈で話されました。話し合った具体例は「タイピング」です。キーの配置を頭に思い浮かべ、そのイメージと「手」の動きをすり合わせるように打ち込むというのが、キーボードを使い始めたときの状態。そして徐々にイメージをしなくても打てるようになる。日常の中のいくつかの動作には、とくに意識をしなくても「手」が勝手にこなしくれているものが他にもあるでしょう。精密な「手」の動きは必ずしも「思考」を必要としない。むしろ「意識して」コントロールする必要がなくなったときにこそ熟練した動きになる。この熟練した「手」の動きは、気持ちを落ち着けたり、集中させたりする特徴があるようです。手仕事をしていると無心になるという経験はみなさんにもあるのではないでしょうか。

 ところで、「手」に一定の動きが馴染んでいくときには、訓練というより真似をすることがきっかけになるという話にもなりました。私たちは子供のころから、身の回りにあるモノに触れ、それを使う「手」の動きを真似してきています。食卓に置かれた二本の棒をどう使えばいいのか、私たちの「手」は「わかって」います。こういったことから、「手」の動きには文化や制度が反映しているという指摘をされた人がいました。動きを通して、どんな文化の中に生きているかが「手」に表れるということです。裏を返せば、誰かが目的をもって「手」の動きを制御しようとするとき、それは「手」の「持ち主」の「精神」を支配することにもつながるかもしれません。

 強い「気持ち」の中で思わず動く「手」、無心さをもって決められた動きを反復する「手」。この二つの動きには「感情」や「気分」といったところで違いはあれど、いずれも「手」がまるでひとりでに動いているかのように思われるところで共通しています。私たちは「頭」に思い浮かんだ目的や「意図」に従って動くある種の「道具」として「手」を説明することができるし、「手」は「脳」の指示を受けて動くという知識ももっています。ところが、ここで出てきた話にあるように、「頭」と「主従関係」にあるのかどうか疑わしい「手」の動きがあるわけです。

 「手」と「頭」は「主従関係」にあるのではなく、お互いに息をあわせて連携しているのかもしれない。こんな話の流れで、「書き間違い」や「タイプミス」について考えました。「手」は書き慣れた文字を書き、いつもの指運びでキーボードをたたいている。そういうとき「頭」は横やりをいれずおとなしくしている。ところが、「頭」が「早く作業を終わらせたい」と余計なことを考え出すと、連携が乱れて「手」が自分の動きに集中できなくなってミスが生じる。二人で作業をしているとき、お互いそれぞれの作業に集中していればいいものを、隣の人が作業に関係のない話をしだして気が散るというのに似ています。「頭」が何も言わなくとも「手」は自分の作業をするし、むしろ「頭」が邪魔なときさえあるのです。

 ここまでくると、もはや「手」と「頭」はそれぞれ独立した別の「生き物」に思えてきます。そして、「手」がそうなら腕も足も脚も胃も肺もそれぞれに別の「生き物」で、人間はその合成体と考えたほうがいい。つまり人間は「キメラ」なのかもしれない。「頭」という「生き物」は、それぞれの「生き物」のニーズを聞いて妥協点を探り、ときには邪魔者扱いされながら、この「キメラ」が分解せずに一つの方向を向くようにしている苦労の多い仲介者なのかもしれない。

 「手」について考えて流れ着いたのは、人間を「キメラ」として考えるという視点でした。これだけ聞くとバカげた考え方に思うかもしれません。とくに、ふつうそう説明されるときの人体の仕組みからすれば。しかし、緊張で震える「手」がどうしようもないことを、強い怒りで力の入った「手」が「意図した」ものでないことを、知っていませんか。そして、「脳が手に指示を出す」という説明が、震える「手」を止めるためにはたいてい無力だということを知っていませんか。もっとも、人間が「キメラ」だとしたら、どの部分が「私」なのかという問いは残るのですが。
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tag : 哲学カフェ振り返り

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のら

Author:のら
猫鳴堂の堂守猫(雑種)。青い。

空堀哲学café
・日時:
 毎月第四日曜日
 16:00~18:00
・場所:
 道勝café
 大阪市中央区谷町6-4-20


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