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2016-05-31

空堀哲学café「風」振り返り

空堀哲学café「風」の振り返りが届きました。

空堀哲学caféはゆっくりしたペースで話し合うところが特徴ですが、今回はとくにその傾向が強かったようです。「不思議なことに、振り返りを書くと話してる量がいつもとそんなに変わらん」と進行役。振り返りでは、実際の対話の時間の流れはどのように感じられるでしょうか。

ではつづきからどうぞ。


振り返り

 さまざまな意味で使われる「風」をあえて不思議に思ってみることで始めた今回。自然現象としては身近なものだからか、早い段階で「風はこういうものだ」という考え方が出てきます。今回の対話、いつも以上にゆったりとした話の流れを私は感じていました(そもそも空堀哲学caféでスピーディな展開になることはほぼないので相当ゆったりだったと思います)。話し合いは、菅原道真の歌(「東風吹かば~」という有名な歌です)の話をしてくれた人からスタートしました。

 「風」はそれ自体が見えず、ただ「風」が揺らしたものが見える。とはいえ、「風」は見えないだけでたしかに存在する。この話から、「風」は「たしかにそこにあるとわかるが輪郭のはっきりしないもの」という考えが出てきました。「輪郭がはっきりしない」という「曖昧さ」が「風」の特徴ということです。なので、輪郭がはっきりしたものには「風」という言葉を使わなくなります。たとえば、「竜巻」は比較的その輪郭がはっきりしている、あるいは目でその輪郭をなぞることができるので「風」と言わない。一方、「つむじ風」は巻き上げたものによってその実体をつかむことはできますが、それそのものの輪郭はとらえ難い。こういった具合です。

 この「曖昧さ」を利用しているのが「和風」「洋風」の「風」だと考えられます。「インド風料理」は決して「インド料理」ではないけれども、ただの料理よりは「インド寄り」。何がどう「インド寄り」なのかといえばはっきりしない。しかし、確かに「インドっぽい」。こういう「曖昧さ」が「~風」で表現されています。

 「曖昧」「輪郭がはっきりしない」ということは二つの方向に派生していきました。まず、それらを「一定でない」という意味で考えた人がいました。「風」の強弱、吹く場所やタイミング、どれをとっても一定でない。しかし、だからといって全く法則性がないわけでもなく、それぞれの季節に吹く「風」というものがある。「たしかにそこにあるとわかるが輪郭のはっきりしないもの」という考え方の別バージョンですね。

 もう一つは、「どこから吹いてきたかわからない」という意味で「輪郭がはっきりしない」と考えるものです。「風」に当たるとき、大きな流れの中に身を置いているような感覚があると話した人がいました。それは「風」に巻き込まれているという受け身の感覚だそうです。たしかに、「北から風が吹く」のように「何が風を吹かせるか」を言わず、方向だけを指して私たちは「風」の出処を言い表します。「風」に当たっているとき、私たちは何処からか吹いてきた「風」の通り道にいて、だから「風」が通り抜けていく中に巻き込まれている感覚になるのかもしれません。

 「輪郭がはっきりしない」「曖昧」ということに絡んで、「風化」という言葉を引き合いに出した人がいました。現象としては、たとえば「風」が運ぶ砂粒が何かを削り取るようなことをいうのでしょう。しかし、文字通り「風と化す」ということなら、「風化」とは「輪郭を失って曖昧になること」と考えてもいいのかもしれません。

 「風」を「風」とするものである「輪郭の曖昧さ」。これに絡んで、冷房の不快さについて考えました。話し合いを始めた時点では少し暑かったので、お店の方にお願いして冷房の温度を下げてもらいました。1時間ほど経ったところで室温が下がりすぎたので、再び設定温度を上げてもらいました。こうした環境を背景に、「冷房が苦手」という人がちらほらいました。

 なぜ、冷房の「風」は不快に感じるのか。それは「曖昧さ」から考えられるという話になりました。冷房の場合、「風というには輪郭がはっきりしすぎている」というのが不快さを生む原因だということです。「冷風」そのものの姿は見えませんが、温度は何度という単位で調節されており、強弱も「風向」も調整されている、出処も一見して明らか。こうしたコントロールされた「風」は、「曖昧さ」を失って「風」ではなくなり、人によっては不快に感じるものとなる。話し合ってみると、温度を調整しているところが「曖昧さ」を無くす決定的なポイントのようでした。「扇風機」がまだ「風」の名を残しているのは、温度の調整をしていないからという考え方がありました。

 「風」をイメージしたときにどんなものとして思い浮かぶかについても考えました。イメージは二つ、「線的」と「面的」が話題に上がりました。「線的」に思い浮かべられる「風」は何かを揺り動かしているときの「風」です。これは、私たちが「風」を離れたところから「見ている」という場面を想定したときのイメージです。一方、「面的」なイメージの「風」は、自分の身体で「風」を感じているときのイメージです。「風」が吹いている中、「風」に抵抗することで肌に感じる感覚。それは尖ったものが肌にあたるときの「点的」な感覚とは異なる。この「面的」な「風」の中にいると「自分の存在を感じられる」のかもしれないと考えた人がいました。ただ「風」に巻き込まれるのではなく少しでも抵抗しようとしたとき、輪郭のない「風」に当たることで、かえって私たち自身は自分の輪郭を得ることができるのでしょう。

 「風」を大きな流れと考えるという話の方向で、「風」を受けると「生命力」のようなものを感じるということを話した人がいました。先にもあったように、「風」に当たることはその流れに巻き込まれることなのですが、そのときの「風」は「力」と感じられるということです。「風」と「力」を結びつけて考える後押しになったのが、「風雪」や「風雨」といった「風」の使い方の指摘でした。この場合の「風」は「雨」や「雪」を強めるものとして考えることができます。つまり、「風」は「力」を与えるものとして他の何かに伴うものだということです。

 ちなみにこの発想で「インド風料理」について考え直して、「インド風料理は、インドっぽくなるように味付けなどでインド料理から後押しされた料理」と考えた人がいました。こういう意味で「インド風料理」は「インドからの風が吹いている料理」だということですね。

 「力」や「エネルギー」として「風」を考えることに「曖昧さ」も含めてみると、また新たな考えにたどり着きました。「風」はその「曖昧さ」「輪郭のなさ」ゆえに他のどんなものにも合わせることができ、伴うものに「力」を与える。「曖昧さ」「輪郭のなさ」は「風」のとらえ難さを成すものでありながら、柔軟性をもたせるものでもあるのです。

 「曖昧さ」「輪郭のなさ」は話し合いの中で何度も更新されていったのですが、終わりの時間が近づいたころの最後の更新で、「こころ」と関係があると話した人がいました。「一定でない」という「曖昧さ」は「こころ」にもあり、「風」は「こころ」と沿うもの、あるいは「こころ」が「風」に沿うものなのかもしれない。歌にしても詩にしても、「風」という表現がなければつまらないと話した人もいました。

 自然現象をそのままテーマにした今回でしたが、リラックスして過ごすことができたというのが進行役の印象です。話し合いの中では必然的に「風」が吹いている場面をイメージすることになりますが、これがなかなかに心地よいです。もちろん激しい現象もありますが、たいていは穏やかな場面を思い浮かべながらの話し合いだったと思います。問いに引っ張られてどんどん展開していく対話もいいですが、各々に「風景」を思い浮かべながらゆったり話し合うテーマとして「自然」は向いているかもしれません。
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tag : 哲学カフェ振り返り

プロフィール

のら

Author:のら
猫鳴堂の堂守猫(雑種)。青い。

空堀哲学café
・日時:
 毎月第四日曜日
 16:00~18:00
・場所:
 道勝café
 大阪市中央区谷町6-4-20


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