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2016-09-07

空堀哲学café「自然」振り返り+参加者感想

先日の空堀哲学café「自然」の振り返りが届きました。久しぶりですが、楽しみにされていた方はおられるでしょうか。今回は参加者の方からいただいたご感想も合わせて掲載いたしました。

今月の空堀哲学caféもすでにご案内を始めておりますので、ご興味のある方はそちらもご覧ください。

では振り返りと感想はつづきからどうぞ。


振り返り

 いつものことですが、「自然」という言葉をあえて多義的なままにして話し合いました。話しやすいという意味では整理したほうがいいのですが、ノイズが多い方が疑問をもつのには丁度いいと思います。もっとも、こうして振り返りを書くときに困ります。

 さて、「自然」というとまずは山川草木というイメージを思い浮かべるという人が多かったようです。私も最初に思い浮かぶのはこのイメージです。一方で、山や川やといった「自然」が苦手だという人もいるということを指摘した人がいました。必ずしもすべての人がそうだとは言えないでしょうが、都市部で育った人にはそのような考え方の人が多いかもしれません。

 これは生まれ育った環境の違いによるものだという指摘がありました。すると、山川草木に囲まれて育った人にとっては、その環境に身を置くことがその人にとって「自然」なことです。一方、都市部で育った人にとっては、アスファルトの道を歩き鉄筋コンクリートの建物に囲まれて暮らすことが「自然」なことです。だから、都市部で育った人にとって山川草木に囲まれている状況は「不自然」だということになります。

 「自然」が好きだったり嫌いだったりするのは、実は人によって何が「自然」なのかが異なるからなのかもしれません。

 ほかに「自然」についてのイメージで、「意図がない、あるいは感じられない」ということを挙げてくれた人がいました。ストレートの黒髪やナチュラルメイクはこの意味で「自然だ」と言われます。実際には、髪を綺麗に保つための努力や化粧をしていないように見せる技術が裏にはあって、つまり明確な意図がそこにはあります。しかし、少なくともそういう意図が露骨に前面に出てくることがないようにしているという特徴があります。

 最初は意図があっても次第に意図がなくなっていくという例もありました。スポーツで新しいフォームを体に馴染ませていくとき、最初のうちはどのように体を動かすかを確かめながらになるので、その動きは明確な意図に従ったものになります。ところが、この動作を繰り返していくと、意図して体を動かそうとしなくてもスムーズに理想的なフォームを再現できるようになります。こうして完成された体の動きは滑らかで「自然」だといわれるのです。

 こんなふうに「自然」について考えていたところ、「自然」を「生きやすい」という意味で使っているのではと指摘してくれた人がいました。生まれ育った環境によって何が「自然」かが変わるかもしれないということ。この考え方は、その人にとって生きやすい環境が「自然」と呼ばれるのだ、と読みかえられるというわけです。
意図がないということも、同じように生きやすさという観点から理解することができます。つねに意図してある動作をしている間は、スムーズに事を運ぶことができません。意図せずとも然るべく必要なことができるようになって初めて、その動作は滑らかで「自然」なものとなります。ぎこちない動作よりも滑らかな動作を続けるほうが居心地は良いですから、意図がないというイメージで考えた場合も「自然」にある生きやすさという側面を見ることができます。

 「自然」は生きやすいということを意味している。後半では、「自然」がこれとまったく逆の側面を見せるときについて考えました。つまり、「自然災害」という言い方をするときの「自然」です。

 この場合の「自然」については、前半で出た意図がないというイメージが再び挙げられました。思いも目的もなく向かってくる巨大な力。それが「自然」のもつ生きやすさとは別の側面です。

 参加者の中にも大きな災害を経験した人がいました。そのときのことを振り返って、人によって感じ方は違うと思うと留保されつつ、「仕方がない」という思いしかなかったと話してくれました。理由や目的を訪ねようにも、「自然」はそれに当たるものをもたずに私たちの方へ向かってきます。いや、「自然」が私たちに向かってくるという理解でさえ、私たちの側から勝手に「自然」に当てはめているに過ぎないのでしょう。「自然」が何をしたとしても、私たちはそれについて釈明を求めることができず、仕方がないと言うほかありません。

 「自然」には意図なく破壊をもたらすもの、私たちに死をもたらすものという側面がある。前半で考えた生きやすさとは正反対です。しかし、意図がないという特徴はこの二つの側面の間で共通しています。そして、意図がないということ、目的や理由が定かでないということから考えると、生と死とはまさにそういうものとして同じように考えられるのかもしれません。

 ここで話題に上がってきたのは、生や死、それも始まりと終わりとしてこの二つが語られるとき、「自然」という言葉が使われるということです。「自然出産・分娩」や「自然死」がこれに当たります。

 人が生まれ死ぬということは、私たちの思いと関係なく訪れることで、その理由について説明を受けることはできません。生や死は根本的には私たちの力でどうにかできることではなく、仕方がないというほかないものです。だからといって、私たちは人が生まれてくること(あるいは生まれてこないこと)に、人が死ぬということに何もできないわけでもありません。私たちは人が生まれてくることを助け、安らかな最期を迎えられるよう工夫を凝らしています。

 とはいえ、このことはかえって私たちの悩みのタネとなっているかもしれません。自然に任せて仕方がないと思うことができれば、生死について葛藤はないかもしれない。ところが、実際には私たちは生死に介入しているのです。それも、根本的な変更は加えられない中途半端な仕方で生死をコントロールしようとしてしまうのです。そして、ついには何が「自然」な生死の営みなのかわからなくなってしまう。「自然出産・分娩」や「自然死」といった、あえて「自然」ということを強調した表現にはこういった背景があるかもしれません。

 「子供が欲しい」「この人に死んでほしくない」という私たちの思いと、何の意図もなく訪れる「自然」な生死。もし生死について何かを求めてしまうことが私たちの「自然」であるならば、それは私たちにとって生きやすさと葛藤の両方をもたらす「自然」なのかもしれません。

 今回のテーマについて、私は「人間対自然」という関係を前提にしたくありませんでした。この構図では人間が、つまり私たちだけ安全なところにいて、「自然」という対象について考えているように思えるからです。どんなテーマでも自分が現に巻き込まれているものとして考えたい。いつもそういう対話をしたいと思っています。


参加者感想

有難うございました。自然に内在する自分、それは運命と言い換えれるのかも知れない。人は生きているのではなく生かされている。おさまりよく、違和感なく日々あることが自然そのもの、自然体なのだなと感じました。難しいテーマでまだ混沌としていますが、少なくとも自然にやさしくなんて言葉をわたしはこれからは使わない。

(庸)


自然に振る舞うと言うことはよく聞きます。しかし人間、動物、植物全てその様に振る舞っているのでしょうか。この言葉の意味を一つ一つの振る舞いで考えたいです。

(霧雨鏡月)


〇空堀哲学caf参加始めて1年(12回皆勤)、今回は初めてネガティブな印象ばかりが残り残念でした。(何でも言える空堀哲学cafだからまあいいか-) 隣席者の心無い大声での話し声に邪魔をされ、他の参加者の声が聞き取れず話に入っていけませんでした。
〇「自然」という壮大なテーマに大いに期待を寄せ「日本の自然の美しさ」「富士山は何故〈世界自然遺産〉ではなく〈世界文化遺産(関係者主張)〉なのか」「経済活動と人間らしい生活の調和」「地球温暖化、異常気象、公害」「先進国と発展途上国の温室効果ガス排出規制の利害」等々皆さんの話をいっぱい聞きたいと期待していたのに…

(じいじ)
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tag : 哲学カフェ振り返り参加者感想

プロフィール

のら

Author:のら
猫鳴堂の堂守猫(雑種)。青い。

空堀哲学café
・日時:
 毎月第四日曜日
 16:00~18:00
・場所:
 道勝café
 大阪市中央区谷町6-4-20


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