fc2ブログ

2016-11-03

空堀哲学café「プレゼント」振り返り

空堀哲学cfé「プレゼント」の振り返りが届きました。皆さんの考える「プレゼント」はこの中に出てくるでしょうか。それとも何か別のものを「プレゼント」だと思われるでしょうか。

ではつづきからどうぞ。


振り返り

 「プレゼント」というテーマを選び案内文をつくるとき、私なりにモチーフにしていたものがあり、それについて話すところから始めました。私がモチーフにしていたのはテーマと同名の歌だったのですが、その歌は「自分が死ぬという出来事を最後のプレゼントにする」という内容の歌です。自分の死をとおして、生きていること、死んでいくことを伝える。テーマそのものや案内文からは想像できないようなモチーフだったと思いますが、私の話したことをきっかけに参加者の一人がご自身のことを話してくれました。

 その人が話してくれたのは娘に子供ができたときのこと、つまりお孫さんができたときのことでした。その人自身の奥さんは長い闘病生活を送っておられ、お孫さんができたのはそのなかでのことだったそうです。お孫さんの誕生を「神様からの贈り物」と奥さんは言われていたそうです。そのお孫さんの祖父であるご自身にとっても、思い出深い出来事だったそうで、その語り口からもお孫さんの誕生がかけがえのない「プレゼント」であることが伝わってきました。

 このお話から浮かんできた疑問が二つあります。一つは「プレゼントしたのは誰か?」。もう一つは「プレゼントされたのは何か?」。

 「誰が」については、「神様」と奥さんは言っておられました。その他に、「孫を生んだ娘さん」、あるいは「お孫さん自身」ということもあるかもしれません。「娘」や「孫」というのは現実に目の前にいる人なのですが、「神様」というとやはり少し違う存在です。この「神様」に近いものとして、「秋の贈り物」というときの「秋」を例に挙げてくれた人がいました。この「秋」も、贈り主としてはっきりと名指されていながら、実際には捉え難い存在です。

 「何を」については、これもやはり「お孫さん」がそうかもしれません。あるいは、そういう具体的な何かというよりも、「孫が生まれたという出来事」そのものが「プレゼント」なのかもしれません。実際、この話をしてくれた人は、孫が大きくなっていくその過程でもなお「プレゼント」は続いているという感覚があるようです。そうであるなら、「プレゼント」はコレと言えるような「人」とか「モノ」だとは限りません。

 いずれにしても、「プレゼント」の「誰が」「何を」は案外と漠然としているということがわかりました。しかし、それにもかかわらず「プレゼントされた」という感覚ははっきりしているものなのです。そうでなければ、先のお孫さんのことを話してくれた人のように「プレゼント」の思い出を鮮やかに語ることはできないでしょう。

 ここまでの話の流れで、「何かがプレゼントになるかどうかはもらった側の感覚による」ということがひとつの目安として提案されました。そして、この「感覚」が何なのかということを問題にしました。

 話し合っている中で、参加者の人が「重い」という言葉を使われました。その方自身は意識されていなかったと思いますが、もらったものが「重い」という表現を自然に使っていました。そこで、この「重い」について考えてみました。

 「重い」には数値的に量ることのできるものがあります。受け取ったときにズッシリと「重さ」を感じるものは、それがゆえに「プレゼント」としての存在感を主張することがあります。一方、数字で表すことのできないような「重さ」もあります。話し合いのなかで出てきたわかりやすい例としては、「とくに思い入れのない人からもらったプレゼント」があります。自分としてはそれほど近しいと思っていない人から豪華な贈り物をされたとき、私たちは「ちょっと重い」と思うことがあります。これはあまり好ましい「プレゼント」ではないのですが、しかし「重さ」という感覚とともに、もらったものが「プレゼント」であると私たちは認めているのです。

 ここから導き出されたのは、「受け取ったものに対して『重さ』という尺度が使われるとき、それは『プレゼント』になる」という一つの考え方です。この「重さ」という尺度が使われるかどうかは、贈り主が誰か、受け取った人は誰か、それぞれの立場は何か、などの「文脈」に依存しています。例えば孫が生まれるということでも、「娘の子供としての孫」と「息子の子供としての孫」で比べると、前者の方をプレゼントと感じ後者ではその感覚が起こりにくいということが話されました。当然ながらこれも個人差がありえることで、実際にはいつ何に対して「重さ」の感覚をもつのかが人によって違います。

 さて、話が変わりますが、「プレゼント」のバリエーションとして「自分から自分へのプレゼント」という例が挙がりました。このタイプの「プレゼント」で特徴的なのは、「言い訳が必要」ということです。何の理由もなく自分へ「プレゼント」を、というわけにはいかないので、何か「プレゼント」をするための「言い訳」をつくるということですね。「言い訳」としては「~を頑張ってきたのだから」と言われることが多いようです。この場合の「プレゼント」には「ご褒美」という言い方も使われていました。

 「自分から自分へのプレゼント」は「あげる人」も「もらう人」も「自分」なのですが、これを「あげる自分」と「もらう自分」に区別して考えてみました。まず「あげる自分」は今プレゼントを用意して贈る人なので、「現在の自分」だと言えます。では「もらう自分」は誰なのでしょうか。このことについては、「言い訳」がヒントになりました。「言い訳」にはていていの場合「頑張ってきたこと」が使われます。つまり、「言い訳」は「頑張ってきたこと=過去のこと」を理由にしているわけです。そうであるなら、「もらう自分」は「頑張ってきた自分=過去の自分」だと考えることができます。

 こうして、「あげる自分」と「もらう自分」を分けて考えたところ、「自分から自分へのプレゼント」は「現在の自分から過去の自分へのプレゼント」だということがわかりました。このことが、「自分から自分へ」だけでなく「他人へのプレゼント」にも言えるとしたらどうでしょうか。

 「自分から自分へのプレゼント」では、「自分がこれまで頑張ってきたこと」に対してプレゼントが贈られます。このとき、「プレゼント」は「自分がこれまで積み重ねてきたもの」に向けられています。これと「重さという尺度」の話を組み合わせて考えてみると、「『プレゼント』のもつ『重さ』は、それが向けられている『過去の時間の積み重ね』と対応している」という考え方が出てきます。贈る側が、贈られる側の「重ねてきた時間」に対する思い(敬意や好意など?)を込めて何かを渡すとき、それは贈られる側にとって「重さ」をもつ「プレゼント」になるということです。

 何かが「プレゼント」になるかどうかは、それが「重さ」をもつものとして受け取られるかにかかっています。そして、その「重さ」は「時間の重なり」によってつくられる。そういう意味で、「プレゼント」は「誰かの過去に向けて贈る(贈られる)もの」なのかもしれない。これが対話のたどり着いたところでした。誰かに何か「プレゼント」をしようと思ったときは、まずその相手がどんな時間を過ごしてきた人なのかを考えてみることが「良いプレゼント」を贈るコツかもしれません。これから「プレゼント」をする機会のある方は、そんなことも気にされてはいかがでしょうか。

 今回のテーマで24個目、案内は道勝caféさんのポスターとブログにほぼ限られているなかで、空堀哲学caféは参加者に恵まれて続いています。今後も様々な問いを用意してお待ちしております。これからも空堀哲学caféをよろしくお願いいたします。
スポンサーサイト



tag : 哲学カフェ振り返り

プロフィール

のら

Author:のら
猫鳴堂の堂守猫(雑種)。青い。

空堀哲学café
・日時:
 毎月第四日曜日
 16:00~18:00
・場所:
 道勝café
 大阪市中央区谷町6-4-20


最新記事
カテゴリ
記事一覧

全ての記事を表示する

検索フォーム
リンク
ご予約・お問い合わせ

お名前:
あなたのメールアドレス:
件名:
本文:

これまでの訪問者数
RSSリンクの表示
QRコード
QR